昭和41年02月11日 夜の御理解
今日四時から、散歩に出らせて頂きました。ちょうど四十分あまり、これから上り、あの上りますと。そしてせんだん通りに出まして、久大線から久大線をずうっと渡って、それでこの上の、田島の下のところまで登って、こう下って参りました。ちょうど四十分かかりました。あの久大線の上のちょっと上に、最近みかん畑が少し出来ているんですね。そこにご夫婦らしい人達が、何かあの働いておられました。それで私が参りましたら、何かその、物言いかけておられるけれども、耳が遠いから分からん。
言うておられるのが、目が薄いものですから、誰か分からんのだけれども。とにかく丁寧に夫婦でその、ま久し振りに出てお出でなさいましたねと言った様な事を、久し振りに、こっちに出てきましたて、あの久大線の下でしたもんね。けどもその、どこの誰やら分からんのです。肥えた丸く肥えたあの、奥さんだった。ご主人は向こうに離れておられたから、いよいよ分からなかった。
それでまぁ向こうは丁寧に、挨拶されますから、私も久大線の、あの軌道の上から、ま丁寧にお辞儀だけはしたけれど、とうとう誰か分からんなりに帰ってきたんですけれども。向こうは分かっておられるでしょう。私が椛目の大坪であると言うことが、分かってあるから向こうから、物を言いかけられたんでしょうけれど。そばへ行っときゃ、はぁあなたでしたかと分かるでしょうけれども。さぁ分からなかったら、何かこうすっきりしなかったんですけど。
帰ってあそこのみかん畑の、あの主はどこの方じゃろかと思うて聞いて見たけで分からなかった。私達がこうやって信心させて頂いておってもですね。そのよく申しますですね。その感謝の生活と、ね。もう本当にこの感謝の生活をせんならんと。人間はもう天地の恩恵に受けておるのであるから。ただその喜ばんならんとか、又はその感謝の生活をせんならんとか申しますけれどもですね。ただその漠然と感謝しておっただけでは、そら感謝しておるという事は、腹立てておると言う事よりは、確かに楽な事ですよね。
お水を頂いてもご飯を頂いても、有難うございますと言うのですから。もう本当にこげなものは食べられんとか。腹かきまわって、その水を使っておるとか言うよりは良いでしょうけれども。それでは通ずるところに通じよらんから、いっこうすっきりしたおかげになっていかないです。ね。ですから信心させて頂く者は、そこんところを、まぁいうならば、金光様、金光様を通して、天地の親神様に、一切のことを通して、はっきり金光様のお取次ぎを頂いてから、天地の御恩恵を分からせて貰うた。
もしこの、天地の御恩恵を分からせていなかったら、一生天地に対する、忘恩の生活をしなければならないところであったけれども。金光様のおかげで、こうして日々感謝の生活が出来る。しかもその感謝をどこに捧げるか。どこに捧げるという、宛がはっきりあるところが、私は有難いと思うですね。これは特に、まこの辺りの例を取るなら、甘木の教会の方達。今頃どうか知りませんけれども。初代の親先生がおられたころの時分は、ご信者さん方がですね。皆さんもうこれは異口同音に言われることです。
もう本当に親先生のおかげで助かりました。親先生のおかげで信心が分かりますち言うちからもう、もう金光様じゃないです。もう親先生です。ね。もうゴヒレイの立つ教会なら、必ず神様のおかげで助かりましたち、言うことは言わんですね。もう親先生もう私の方は、親先生あってから、私の方がありますと言うです。ね。その親先生が、金光大神に通うてござる。天地に通うてござる。ですから親先生のおかげで。もうこれが一番、実を言うたら、もう目の当たりに見ておるのですから日夜。
こげん間違いのない事はないです。金光様と言うても、まぁだ拝んだことも無い。教祖の神様とは、どんな方かも知れん。教えこそ残っておるけれども。天地の親神様と言うたっちゃこう漠然と、あんまりし過ぎてござる。ね。その天地の親神様と、通うてござる。なるほど、うちの親先生は、天地に通うてござるものを持ってござる。ね。その証拠には、うちの親先生は、天地が自由になるようなお徳を受けてござる、例えて言うなら。ね。金光大神の、本当のお手代わりといや、うちの親先生だろうと。
うちの親先生こそ、真の金光大神のお手代わりであろうと、こういう様なことが、親先生を通して分からせてもらい。だから親先生お願いしますという時に、もう金光大神に通うのであり、天地に通うのである。もう私共はですね。信心ばかりはもう実感ですよ。有難うございますというのも、実感なんです。それはちょうど冷たいお水に手を差し込む様に、暖かい火に手を当たるように、もう温かみを感ずるのです。ね。熱っと言った様なものを感ずるのです。
冷たいものだったら冷たい水に、手を入れたら冷たいというものを感ずるように、そういう実感のあるものであるという事。そこで例えば親先生、有難うございますが、一番、実感なんだという事、ところがその親先生、その人がですたい。金光大神に通うてござらなかったり、又は天地に通うてござらなかったら、こらやっぱり言わんはずですよね、皆が。そらもう神様のおかげで、神様のおかげでばっかり言うです。もうこら私も不思議なくらいですね。甘木の方達は、必ずそういうです。
如何に甘木の初代の親先生が、お徳が高かったか。金光大神に通うてござったか。ね。天地のお徳を、身に受けておられたかを感じるのです。いよいよ取次ぎ者たるもの、いよいよ、金光大神に通わなければならないなと。金光大神へのお手代わりが出来る、本当の取次ぎ者にならなければいけないなと。ある先生が、秋永先生に対してある用件で、あるところに行かれたんです。したら世の中にはね、お取次ぎ先生じゃなくて、お取り込み先生が、バサラか多かもんなと言わっしゃったち。
もうそれを聞いてから、大笑いした事でしたけれども。本当にお取次ぎの先生じゃなくて、お取り込みの先生が、沢山多い様に思うですね。もう二言目には御用せんならん。御用すりゃ助かる。こらもうお取り込み先生です。さっさと自分がお取り込みするこつばっかり考えておる。だからそういうところでは、先ず先ず助からないです。ね。信心も分からないです。信心を表しておられませんもの、先生自身が。さぁこれを見なさいと言うて、生きた手本を見せてから、自分がおかげを受けておられないです。
私は、二、三日前も、家内と話したことでした。もう第一もう家族の者が、本当におかげを受けなければもう、私が幾ら説教台の上で、もっともらしゅう言うたって駄目だ。先ず家内のお前が、いっちょ助かってくれなければ。子供達がなるほど信心を頂いてござる家庭だという子供達に、家族のものがおかげ受けるより以外になか、ね。さぁ家庭円満のおかげを頂かにゃならん。信心は家庭に不和の無きが元なりと、如何に説いたところでです。家族の中に親の言うことを聞かぬ子供がおったり、ね。
家の中に不如意な問題ばかりが、重なっておると言う様な事ではです。とても親先生のおかげでと言った様な事は、言いますまいと私は思う。それでは例えよし、口では言うておっても、今日私が久大線の上で挨拶したように、神様は分かってござる。向こうの方は分かってござる。こっちの方が分かっとらんけん、何かいっこうにすっきりせん。おかげがすっきりしてこない、それでは。ね。なるほど金光様のおかげであり、天地の親神様のおかげであるけれども、それに通うてござる取次ぎ者。
そういう意味で一番私はこの近所で、そういうおかげを受けておられたのは、やはり甘木の初代だとこう思うですね。その証拠には、信者がそう言うですもん。本当に親先生のおかげで、もう私の方は、親先生の親先生あってから、私の家があります。もう親先生がおられなきゃ、今頃とてもどげんなっとったか分かりませんていう様な風に言うんです。ね。私はそういう様な意味合いで、段々有難いということは、椛目にも段々ご信者さんの中に、親先生、有難うございますと、ね。
親先生のおかげでと言う人達が、段々増えてきたことは、本当に有難い事だと思う。その人達はもう、これは言わん。ほんなら今日からいっちょ、親先生有難うございますと言うたって駄目なんです。と言うよりも、実感なんですから。暖かいものに接してから、本当に暖かいものを感じる様な実感なんですから。冷たい水に手を突っ込んだら、冷たっというものを感じるような実感で、親先生有難うございますでなからなければ、金光大神にも通わない、天地にも通わないのですね。
その親先生有難うございます。これが一番実感でしょうが、目の当たりに見てからですから。ね。けどもこれがお取り込み先生になって来る時に、いくら親先生有難うございますというたっちゃ、ここでぴしゃっと受け止めてから、自分だけが有難うなってござるだけだから、こっちには通いよらん。だから信者がおかげを受けんということになるのです。ね。これはまぁ皆さんに言うということよりも、実は私自身が頂かなければならないことなんだけれども。
私自身もいよいよ、金光大神の手代わりとして、天地にいつも通うておれれる私になることを精進したいと思う。皆さんも、もう言うならば、金光様も言うことは要らん、天地の親神様も言うことは要らん、ね。金光大神の言うところは、まさかの時には、天地金の神と言うに及ばん。金光大神助けてくれと言えば、助けてやると仰ったのは、まさかの時には、金光大神もおらなければ、天地の親神様も要らん。親先生助けて下さいといや、助かられるような親先生であり。
またそれだけの先生にと、頂けれる、皆さんの信心と言うものがです。私は必要じゃないかという風に思うですね。これがもう何と言ったって、一番実感なんです。目の当たりに見ることが出来る、ね。目の当たりに聞くことが出来る。ね。その教えを頂いて、その体験を聞かせて貰うて、自分たちの信心の、血に肉になっていくのであるから、なるほど、親先生のおかげということになるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。